本記事の制作体制
BECOS執行役員の熊田です。BECOSが掲げる「Made In Japanを作る職人の熱い思いを、お客様へお届けし、笑顔を作る。」というコンセプトのもと、具体的にどのように運営、制作しているのかをご紹介いたします。BECOSにおけるコンテンツ制作ポリシーについて詳しくはこちらをご覧ください。
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皆さんは北一輝(きた いっき)という思想家・革命家をご存知でしょうか。
国家主義運動の指導者として、強い信念と先見性をもって国家改造を志しながら、陸軍首脳の謀議により「二・二六事件」の首魁として処刑された悲劇の男、北一輝。
かの三島由紀夫は北一輝のことを 「天才的思想家」「日本的革命家の理想像」と絶賛し、30年後に二・二六事件をオマージュし自決。北一輝を題材に手塚治虫は漫画化するも、日本政治の闇、裏の支配者層を炙り出そうとしたため未完で連載打ち切り。のちの総理大臣、岸信介までも傾倒していた「国家改造」をめぐる北一輝の思想。
敗戦後、結果的に、北の思想の7割以上が、GHQがまとめた『日本国憲法』に取り入れられる事となります。あまりに時代の先を行き過ぎた男、北一輝。のちに評論家たちは、彼をこう評します。『時代の風にさらされて、ホームラン級の大ファールを打った男』と。
北 一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎〈きた てるじろう〉、新潟県佐渡ヶ島 生まれ。戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件の皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議で死刑判決を受けて刑死。
1883年(明治16年)4月3日、新潟県佐渡郡両津湊町(現:佐渡市両津湊)の裕福な酒造業・北慶太郎と妻リクの長男輝次として生まれます。父慶太郎は初代両津町長を務めた人物で2歳下の弟は衆議院議員の北昤吉。
1897年(明治30年)に前年に創設されたばかりの旧制佐渡中学校(新制:佐渡高校)に一期生として入学、翌1898年(明治31年)にとび級試験を受け、3年生に進級します。その後、早稲田大学に入学。
北一輝の弟、北昤吉の書いた掛け軸が、佐渡ヶ島生まれの私の祖父の家にも飾ってあります。佐渡高校の一期生。一輝で一期とややこしいですが、それから100年後に、私も、この佐渡高校に入学する事となります。彼は2年生をとび級し、そのまま早稲田大学に進学。とても頭の良い人でした。
上京し幸徳秋水や堺利彦ら平民社の運動に関心を持ち、社会主義思想に接近しました。新聞紙上に次々と日露開戦論、国体論批判などの論文を発表、国家や帝国主義に否定的だった幸徳たちと一線を画し、国家を前提とした社会主義を構想するようになります。
彼は国家における国民と天皇の関係に注目し、『国民対皇室の歴史的観察』で「天皇は国民に近い家族のような存在だ」と反論。たった2日で連載中止となります。1906年(明治39年)に処女作『国体論及び純正社会主義』(『國體論及び純正社會主義』)刊行。
内容は法学・哲学・政治学・経済学・生物学など多岐に渡ります。大日本帝国憲法における天皇制を批判したこの本は発売から5日で発禁処分となり、北自身は要注意人物とされ、警察の監視対象となります。
彼の出す本は、ことごとく販売禁止になります。天皇のための国民ではなく、国民のための天皇であるべきだ、と唱え続けました。飢えに苦しみ、困窮する地方の民衆に寄り添った内容でしたが、一方で、天皇をシンボルにするだけで、実権力を振りかざし、贅沢を極める政府や権力者からは疎ましかったのでしょう。国家のお偉いたちからすれば、自分たちには都合の悪い、『危険な男』としてブラックリストに載ります。
北は23歳の時(1906 明治39年)に書き上げた「国体論及び純正社会主義」の中で、民主主義革命の中身をこう規定しています。
・25歳以上の男子普通選挙権
・8時間労働制
・婦人労働の平等
・幼年労働の禁止
・孤児・扶養者を欠く老人・身体障がい者の国家扶養
・義務教育の10年への延長
・生徒への教科書・昼食の無償給付
・遺産均等相続 等々
これは、日本の戦後民主主義改革の殆ど全ての項目を先取りしており、発表当時は日本の支配者層からは揉み消されるも、40年後、アメリカに日本がぶち壊された事により、GHQの手で実現されていきます。GHQが日本の新しい憲法を作る際に参考にしたのが北一輝の改造論でした。戦後の官僚達にもその考えは継承されていきました。(北一派の岸信介がその代表)
北は、書籍を書いても書いても、すぐに消されていきます。著書が発禁となる失意の中で、日本がダメなら、先に革命の機運の高まっている中国から革命してみせよう。北は宮崎滔天らの革命評論社同人と知り合い、交流を深めるようになり、中国革命同盟会に入党、以後、革命運動に身を投じていきます。
それが、中国を変えた、『辛亥革命』です。中国大陸に革命を起こそうとしている『孫文』の支援活動に関与し、北一輝は中国の革命運動に13年もの歳月を費やしました。
日本では、改造を訴えても訴えても届かない中で、先に中国で民主主義の革命を成功させて、モデルケースにしようとしました。
『一輝まんだら』(いっきまんだら)は、手塚治虫による日本の漫画作品。『漫画サンデー』にて1974年9月28日号から1975年4月12日号まで連載されました。
時は1900年、ヨーロッパの列強に植民地化されつつある清王朝末期の中国や明治時代の日本を舞台に、史実とフィクションを巧みに交えつつ、清国と明治日本の関わりや当時の清国人の差別的な待遇、義和団の乱や孫文による革命運動、蔣介石や毛沢東の登場など、主に当時の中国の歴史を中心に描かれている。作品には「一輝まんだら」というタイトルの通り北一輝も登場しており、社会主義的な思想の色合いも濃い。
日本政治の闇と、裏の支配者層を炙り出そうとした作品だったからか、未完で打ち切りとなりました。手塚治虫をしてでも描き切れなかった、タブー過ぎる男、北一輝。逆に言えば、影響力の大き過ぎる手塚治虫だったからこそ、発禁になったのでしょう。
1921年(大正10年)1月4日から猶存社の中核的存在として国家改造運動にかかわるようになります。1923年(大正12年)猶存社が解散。「日本改造法案大綱」が改造社から、出版法違反なるも一部伏字で発刊されました。これは、議会を通した改造に限界を感じ、「軍事革命=クーデター」による改造を諭し、二・二六事件の首謀者である青年将校の村中孝次、磯部浅一、栗原安秀、中橋基明らに影響を与える事となります。
また、私有財産や土地に一定の制限を設け、資本の集中を防ぎ、さらに華族制度にも触れ、“特権階級”が天皇と国民を隔てる「藩屏」だと指摘。その撤去を主張しました。1936年(昭和11年)二・二六事件で逮捕。1937年(昭和12年)8月14日、民間人にも関わらず、特設軍法会議で、二・二六事件の理論的指導者の内の一人とされ、死刑判決を受け、処刑されました。満54歳没。
二 . 二六 事件を起こしたのは、正義感溢れる、若き青年将校たちでした。天皇の周りに、のさばる大臣などの権力者たちが自分たちばかり贅沢をしている中で、青年将校たちの地元の田舎では、家族や仲間など人々が飢えに苦しみ、生活は困窮していました。
そんな格差社会の日本の状況を『憂い』、打破すべく、苦しむ民衆のために立ち上がったクーデターこそ、二 . 二六 事件なのです。クーデターの正当性を唱え、誰もが豊かな生活を送るための民主主義の理想を書いた北一輝。若く沸る(たぎる)青年将校たちを鼓舞し、行動の背中を押した事でしょう。
このまま行くと日本は無くなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。
三島由紀夫ほど二・二六事件に深い関心を寄せた文学者はいません。特に晩年は取り憑かれたように熱心な研究を行っていたことでも知られいます。
三島には二・二六3部作と呼ばれる作品群があるのです。
『憂国』短編
『十日の菊』戯曲
『英霊の聲』短編
二・二六事件はもともと、希望による維新であり、期待による決起でした。革命とは制度の全否定から始まります。現体制の転覆。ところが、維新は「本質」には問題がない、とします。
元にあるものは光り輝いているが、それが邪魔物によって汚れ、本来の輝きを失っていると捉えたのです。
つまりそれは、明治維新の本質は民主主義の達成であったが、汚職政治家などがはびこるせいで未達成である、という北一輝の主張そのものなのでした。三島はそれを「純粋性」と呼び、決起将校は「国体顕現」と言い表しました。
「純粋性」「道義的」というキーワードを用いて三島は、昭和維新(二・二六事件)の精神性の高さを力説しました。二・二六事件の決起将校は、国家そのもの対して道義的責任を負っていた、つまりそれは無分別な反乱とは違うのだと。
三島は、二・二六事件から34年後、自衛隊駐屯地にて、演説の後に自決します。1936年にデタラメの限りをつくしていた連中の末裔は、1970年にも居眠りをし、デタラメをつくしていました。
三島は具体的に示していませんが、最後の演説における批判の対象は、戦後の政治家や官僚、そして戦後体制に安穏とする全ての者だと思われます。それを打破しようと叫んだのが三島の最後の言葉=檄文(げきぶん)でした。しかしながら、渾身のその純粋な叫びも、ヤジにかき消され、ついに届く事なく、儚く散っていったのでした。
まるでそれは、理想に行動するも、失敗し、散っていった、二・二六事件の将校たちへのオマージュでもありました。
散るをいとふ 世にも人にもさきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐
三島由紀夫は北一輝のことを
「天才的思想家」「日本的革命家の理想像」と絶賛し、最期までその幻影を追うのでした。
北一輝の生まれた佐渡ヶ島を有する新潟から、怪物的な総理大臣が生まれる事となります。そう、田中角栄です。
彼は『思想』や『軍事』ではなく、『経済』でダイナミックに日本を改造しようと試みます。北一輝が改造論を書いた1922年から、ちょうど50年後の1972年、田中角栄が出した本こそ、ベストセラー『日本列島改造論』。
『日本列島改造論』には、日本列島を高速道路・新幹線・本州四国連絡橋などの高速交通網で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密の問題と公害の問題を同時に解決する、などといった田中の持論が、イタリアやアメリカの例を引いて展開されています。
田舎である地元新潟などの豪雪地帯の貧困の解消は、田中の悲願でした。また、電力事業における火力発電から原子力発電への転換についても言及されています。
田中角栄は、新潟という険しい雪国で、仕事が少ないなか必死に家族を養ってくれた母親を、幼い頃からずっと見てきました。上京し、都会の豊かさに愕然としたのです。それから土方で働き、建設会社を立ち上げ、政治家となり、地方と都会の貧富の差を無くそうとしたのです。
それは、二・二六事件で青年将校たちが成し遂げたかった、、平和な世界。北の『軍事』と田中の『経済』。方法は違えど、その想いは大きく前進していくのでした。
田中内閣の外交業績としてまず挙げられるのは、日中国交正常化です。これによって田中は、中華人民共和国から「井戸を掘った恩人」と評価されました。日中外交の先駆者という意味であり、田中が金脈問題で失脚した後も、鄧小平が田中の私邸を訪問し敬意を表し、田中も晩年の1992年に再訪中しています。
中国との良好な関係性も、辛亥革命のために共に中国と手を取った北一輝と、重なる所がありますね!
1922年『日本改造法案大綱』北一輝
1972年『日本列島改造論』田中角栄
2022年『日本ファッション改造論』渡邉仁
100年前に『思想』の改造を説いた北一輝。50年前に『国土』の改造を吠えた田中角栄。そしてまたそれから50年後に当たる2022年、彼ら2人と同じ新潟県の佐渡ヶ島生まれの私、渡邉仁が『日本におけるファッションにおいての民主主義革命』を檄文(げきぶん)します。お楽しみに!!
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